
異論は多々あると思うが、合唱の基本は、パートの声を揃えて歌うことだとおもう。
一つの音符に対して、ピッチや音色の異なる声が複数存在してしまうと、倍音が響くようなハーモニーは生まれない。
だが、声帯や骨格の異なる他人同士が全く同じ声を出せる筈はない。
だから、周りの声を聞いて、その音色に溶け込むように気配りする。

音色の次はピッチ、その次は発音といった具合に、細部までパートの声を揃えることが求められる。
その上で、曲想に見合った歌い方を作って行く。
これら制約の許す範囲において、始めて自分を表現することができる。
全体最適のため、自己抑制後に残された、僅かなスペースの中において、限られた自己の発露が許されるようなものだ。
その不自由さが不満になり、合唱を止めてしまう人もいる。
それとは逆に、全体最適遂行後の達成感に、得がたい喜びを感じる人もいる。
ハーモニーを作るためには、他のパートの下支えにならなければならないこともある。
献身とか自己犠牲に近い。
だから、合唱団とは自虐主義者の集まりと思うことがある。
反面、和音の移ろいに身を投じ、自分一人のささやかな力が、音楽全体の表現ベクトルの中に融合したときの陶酔感は、例え自虐主義者との謗りを受けても、捨てがたいものがある。

合唱らしい歌い方が身に付けば、ハーモニーを乱さない範囲で、自分らしい歌い方もできるようなる。
合唱でも声楽でも、歌をうたうことには変わりはない。
「ブレス」・「共鳴」・「歌う姿勢」という発声の三要素も同じだ。
ところが、声楽を習い始めてすぐ、「多数で歌う」発声と、「一人で歌う」発声には、異なるところがあるのではないか、と思うようになった。
先入観を捨てるのには、何が新な気づきがあって可能となるのだ。

掲載画像: ヴェネチアの夕景
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