
このランキングで、第5位に選んだ、”Piacer d'amor"。
イタリア歌曲集の中で、もっともポピュラーな曲といっても、過言ではないとおもう。
もともとは、フランス語の歌曲。
その後、イタリア語の歌詞がつけられ、イタリア古典歌曲のひとつとして、ノミネートされるにいたる。
そして、この曲のもつ底知れない普遍性は、さまざまな形の音楽へと発展することに。
シャンソンや、ポップスや、ロック。
はたまた、ピアノ、ヴァイオリン、フルート、サックスフォンなどなどの、器楽演奏曲として。
時代の変遷に寄り添い、250年たった今でも、世界中の人々に愛され続けている。
ここまで幅広く、形を変えて、世界中の人々に浸透している曲は、音楽史においても、稀有な存在なのでは。
ところが、これほどポピュラーな曲であるのにもかかわらず、意外に謎めいた部分がある。
音楽の友社版「イタリア古典歌曲集(1)」には、AとBと、2種類のPiacer d'amorがある。

パターンAは、Bよりキ一が1音♭(低い)設定。
だいたいのフレージングは同じなのだけど、細かな音符の動きが、微妙に違っている。
さらに、Aの方には、フランス語とイタリア語の両方の歌詞がふられているのに、Bにはイタリア語だけ。
最大の相違は、前奏や間奏の付け方が異なること。
これらの手掛りかりから、謎を解明してみる。
まず、フランス語の歌詞でAが作られて、それにイタリア語の歌詞がつけられるようになってから、Bが作られた。
普通は、キーを変えることによって、高声や低声に対応するのに、メロディの部分を変えているのは、より、イタリア語のリズム感に合わせたためではないだろうか。
フランス語には、イタリア語のように、明確なアクセントがない。
そして、Aで演奏しているうちに、もっとドラマチックな表現が求められるようになり、イントロを長くしたり、曲の後半部への入り方を変えてみたり、伴奏も大がかりな編成にしたりした結果、それらがBとしてまとめられた。
どなたか、真の理由をご存知の方がいたら、ぜひそれを教えてほしい。

Wikipediaによれば、作曲家、ジャン・ポール・マルティ二 (Johann Paul Aegidius Martin)は、ドイツ出身のフランスの作曲家。
1741年に生まれ、1816年に没する。
まさに、アメリカ独立戦争やフランス革命が連続する、激動の時代に生きた人。
子供のころは、ヨハン・パウル・エギディウス・シュヴァルツェンドルフ、というドイツ語の名前だった。
そのころ、彼が生まれたフライシュタットは、ヴィッテルスバッハ家が治める、バイエルン選帝侯の領地。
したがい、正確にはドイツ人ではなくて、バーバリアンと呼ぶべきなのだろう。

つたない、西洋史への理解からすると、バイエルン選帝侯は、ハプスブルグ家のライバルとして、神聖ローマ皇帝の座を狙っていた。
敵の敵は味方という地政学的戦略に基づいて、バイエルンは、フランスと同盟関係を築いていた。
フライシュタットにいた頃の彼は、オルガンに加えて、哲学や法律の勉強をさせられていた。
音楽家というよりは、政治家を目指していたようなカリキュラム。
両親が教育者だったので、厳しい英才教育を受けていたのだろう。
それが、10代半ばになると、故郷を離れ、ロレーヌに移り住んでいる。
そのころのロレーヌは、ハプスブルグの支配から、フランスが取り戻したばかり。

失地挽回に沸き立つロレーヌにおいて、彼はドイツ語の名前を捨てて、なぜかイタリア語の名前に変えている。
マルティーニ・イル・テデスコ。
ドイツ人マルティーニ、を意味するという、おちゃらけた感じのネーミング。
そもそも、どうして、彼はロレーヌに移住したのか。
その理由として、フライシュタットに、莫大な借金を残していたことが、わかっている。
未払いの教育費用が、つもり積もったものだった。
この、重い返済から逃れるため、引っ越しをして、名前も変え、過去を捨てた。
だが、それだけではなく、勉学による立身を諦め、音楽一本で身を立てる決心もしたのだろう。
音楽家として成功する夢は、その後になり、現実のものとして、膨らんでゆく。
ロレーヌからパリに移り住み、名前もジャンに変える。
ウィーンじゃなくて、パリを選んだのは、多分、彼がバーバリアンだったからではないだろうか。

パリに移ってからは、トントン拍子に出世。
43歳のときに、宮廷楽団長にまで上り詰める。
行進曲や歌劇をつくったり、マリー・アントーワネットのために作曲したり。
ところが、好事魔多し。
その直後に、フランス革命の嵐が巻き起こる。
宮廷楽団長は、他の要職貴族たちとともに、革命の中で失職する運命に。
パリを脱出して、リヨンに落ちのびる。
革命がひと段落して、政情も落ち着くと、再びパリに戻る。
復活ブルボン王朝の宮廷楽団長に任命され、見事に復権を果たす。

しかし、パリ帰還後の彼は、後世に残るような作品を生み出すこともなく、音楽家としては、あまりパッとしないまま、この世を去った。
波乱万丈では、あったけど、同時代の音楽家と比べれば、恵まれた生涯だったのではないだろうか
Piacer d'amorの作曲は、1784年。
彼が、パリに移り、1788年に宮廷楽団長に任命される、4年前に作られたことになる。
時は、ブルボン王朝の最末期。
退廃とエスプリが交錯して、貴族文化が爛熟する最中で生み出されたこの曲は、現代まで、その濃密な空気と香りを、音として伝えている。
バイエルン生まれで、フランスの作曲家だった、ジャン・ポール・マルティニ。
一発屋ではあったけど、彼の残した Piacer d'amorは、人々にとってかけがえのない音楽として、後世に伝えられてゆく。

ところで、この曲の日本名は、「愛の喜びは」。
語感からすると、最後の「は」がついていないほうが、すっきりしている。
しかし、その「は」がついているからこそ、本来の歌詞の意味を、正しく伝えることができる。
この曲のメインテーマは、愛の喜びの後におとずれる、虚しさにある。
訳詩を見ればわかるように、「は」のあとには、「一日で終わる」という文句が続いている。
当時の時代背景が求めたものは、「真実の愛の情熱」より、「虚構の愛のはかなさ」、だったのだろう。

<イタリア語歌詞>
Piacer d'amor più che un dì sol non dura;
martir d'amor tutta la vita dura.
Tutto scordi per lei, per Silvia infida;
ella or mi scorda e ad altro amor s'affida.
“Finché tranquillo scorrerà il ruscel
là verso il mar che cinge la pianura
io t'amerò.” mi disse l'infedele.
Scorre il rio ancor ma cangiò inlei l'amor.
<日本語訳>
愛の喜びは一日しか続かないが、
愛の苦しみは一生涯続く
私は彼女のためにすべてを忘れた、
あの不実なシルヴィアのために
だが彼女は今私を忘れ、ほかの愛に身を委ねている
「平野を取り巻く海に向かって小川が静かに流れているうちは、
私はあなたを愛しています」 と不実な女は言った
小川は今も流れているが、彼女の愛は変わってしまった

この歌詞を一読すると、失恋した男の心の風景が、直線的に記されているだけの、もの足りなさを感じてしまう。
シルヴィアの不実に裏切られた後の、「未練」だったり、「うらめしさ」だったり。
翻訳された、日本語のイメージで論ずるのは的外れになるのだけど、言葉が意味する内容については、女々しさに流されているようで、あまり好きになれない。
男心の歌であれば、失恋を乗り越え、気持ちを整理してゆく、心的情景の表現であってほしい。
例えば、オフコースの「さよなら」のように。
それに反して、音楽のつくりは、8分の6拍子のリズムにのって、押しては寄せる感情の起伏を、美しく表現している。
A-B-A’形式を採用。
B部の短調を経過して、A’部の長調に戻ることもあり、試練を乗りこえたあとの、気持ちの整理や、恨みへの昇華になって聞こえてくる。

それでは、実際の演奏では、どのような歌手たちがうたっているのだろう。
ナナ・ムスクリーニなど、女性シンガーが歌っている印象が強かった。
この歌は、出だし部分の音程が低すぎて、テナーには歌いにくところがある。
高音でスピントするような聞かせ所もなく、テナーらしさを発揮できる歌でもない。
ところが、多くのテナーたち、それも、すでに物故されている往年の名歌手たちの演奏が多く残されているは、意外だった。
古き良き時代の、レコード版のサウンド。
その雑音交じりの、懐かしい響きは、この歌が発する最大の魅力である、「はかなさ」を増幅するように聞こえてくる。
テノールレジェーロのティート・スキーパ。
その声質は、もの悲しくもあり、甘く切なくもあり、この曲のベストマッチだとおもう。
キーを1音#(高く)しているが、楽譜通りのBパターンで演奏している。
他方、イタリア歌曲と紹介しておきながら、実際の演奏では、フランス語によるものの方が、圧倒的に多いのも意外だった。
なかなか適当な演奏が見つからない中、ソプラノのアンジェラ・ゲオルギューの演奏を見つける。
イタリア語で、かつAパターンを正確にうたっているので、非常に参考となる。
これも古い演奏ではあるが、テナーのリヒャルト・タウバーは、ドイツ語でうたっている。
女性では、世紀のコントラルト、マリアン・アンダーソンの演奏も素晴らしい。
声そのものの美しさに加えて、音楽を介して伝わってくる表現力に圧倒される。
黒人霊歌を専門としたマリアンの演奏は、どこか、プレスリーの「愛さずにはいられない」、に通じるものがあるような気がした。

さまざまなひとびとに、幅広く愛されてきた、Piacer d'amor。
その魅力の源泉は、旋律が奏でられるだけで、フランス王朝時代の雰囲気が蘇ってくるような、音楽性にあるともう。
洗練され、研ぎ澄まされた美は、時空を超えて人々の心をつかんで離さない。
王朝の人々に触れ、同じ空気の中で呼吸していた宮廷音楽家、ジャン・ポールだったからこそ、それができたのだろう。
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