最高の旅~サンセバスチャン(そしてCasa Nicolasa)~


サンセバスチャン。

 

王室やセレブが、バカンスに集う、スペイン北部の保養地。

 

19世紀には、夏の間に首都が移されれていたこともある。

 

カスティジャーナとは異なる、独自の歴史や文化をもつ、バスクの町。

イベリア半島が、大陸から大西洋に向かって直角に張り出している、ちょうど角の部分。

 

北緯は43度。

 

札幌と、ほぼ同じ高さ。

 

暖かなメキシコ湾海流の恩恵をうける、西海岸性気候ため、季節をとおして温暖な気候がつづく

 

正式には、ドノスティア・サンセバスチャンと呼ばれる。

 

ドノスティアとは、バスク語で聖人を表す。

11世紀のはじめの、ナバラ王国が統治していたころから、この地には『聖セバスチャン修道院』があった。

 

そんなこともあり、聖セバスチャンを守護聖人とし、それがそのまま町の名称となった。

 

バスク語は、世界一難しい、なぞの言語。

 

現在のヨーロッパ人が話している言語とは、文法や語彙など、根本のところが異なるらしい。

 

それどころか、世界中の、どの言語とも関係を立証することのできない、孤立した言語だとも。

 

ローマ人や、ゴート人の前に、この地に住んでいた。

 

そんな人たちが話していた、古い言葉なのだそうだ。

 

これは、イギリス人のジョーク。

 

「バスク人は、悪魔の誘惑にのって、地獄に落ちることはない。なぜなら、悪魔はバスク語を話せないのだから。」

 

チロルの山間には、ケルト語の名残りを話す人々がいる、と聞いたことがある。

 

どうように、バスク語も、歴史の隙間が生み出した、世紀の偶然なのだろう。

 

ちなみに、日本人にもっとも馴染みが深いバスク出身者としては、フランシスコ・ザビエルがいる。

 

ポルトガル人だとばっかりおもっていたけど、実はナバラのハビエル城が生家。

 

したがい、彼の名は、バスク語で「ハビエル」と発音するのが本当らしい。

 

それが、ポルトガル語の発音で、「シャビエル」に変わり、日本人の間では、「ザビエル」として広まった。

 

この町の守護聖人、聖セバスチャン。

 

時のローマ皇帝の怒りに触れ、矢打ちの刑を受ける。

 

瀕死の状況になってもなお、布教を捨てなかったことが評価されて、聖人になった。

 

ペスト予防や、兵士たちの守護聖人としても崇拝されていたこともあり、中世から人気のある聖人らしい。

 

ヨーロッパの美術館に行くと、半裸にされ、後ろ手に縛られ、ハリネズミのように矢が刺さった姿の、サンセバスチャンの絵を、見かけることがある。

 

「弁慶の立ち往生」みたいな構図だ。


画材としても、魅力のある証拠だろう。

 

ただ、写実的なものは、グロテスク過ぎて、あまり好きになれない。

 

聖書の知識を十分に持っていれば、また、別の印象をもつのかも知れないけど。

 

ここには、その代わりに、20世紀初頭に活躍した、頽廃派、エゴン・シーレが描いた、聖セバスチャンを載せることに。

 

2004年の10月。

 

長年の念願がかない、ドノスティア・サンセバスチャンを、旅することになった。

マドリッドから、飛行機で、サンセバスチャン空港まで飛ぶ。

 

そこからレンタカーを借りて、大西洋沿いに、いつくかの町を旅する計画だった。

 

イベリア半島の付け根の角を、左から右に、フランスに向かって進む。

 

オンタビリアでは、パラドールに泊まることになっていた。

 

パラドールとは、古城などの、歴史的な建造物を、ホテルに改修したもの。

 

スペイン版の、国民宿舎のようなもの。

 

そんなこともあり、サンセバスチャンでは、普通のシティホテルに泊まることにした。

 

どうせ泊まるならと、5つ星のマリア・クリスティーナ(Hotel Maria Cristina)を選択。

 

《1912年のオープン以来、 サンセバスチャンの歴史と文化に密接に結びつき、豪華な ベル・エポック 風インテリア、19世紀の肖像画、豪奢なブロケードおよび輝くシャンデリアで飾られた館内》

 

このような、宣伝文句に心が躍る。

 

ところが、到着するなり、何やら様子がおかしいのに気づく。

 

人が、全くいないのだ。

 

あわてて出てきた、コンシェルジュは、次のように説明。

 

「昨日から、水回りの設備が壊れてしまい、十分な宿泊準備ができていない。突然のことだったので、連絡できなくてゴメン。それでも良ければ、泊まってくれ。」

 

最高級ホテルにして、この有り様。

 

他のホテルを紹介してくれたけど、『いかにもスペインらしい出来事』、と笑い飛ばすことにして、予定とおり宿泊することに。

 

たしかに、宣伝文句に違いはなく、館内の装飾は素晴らしかった。

 

タオルやアメニティは、自分でストックルームに取りに行くことになったけど。

 

サンセバスチャンを象徴する観光名勝といえば、それは、間違いなく、ビスケー湾とラ・コンチャ海岸だろう。

 

湾の対岸に、モンテ・イゲルドという、ちょっとした山があり、山頂までケーブルカーで行ける。

 

この山頂からみたビスケー湾の景色は、筆舌に尽くしがたいほど、素晴らしかった。

 

脳裏に焼き付いた光景を、恐らく、生涯忘れることはないだろう。

 

白の海岸に縁どられ、半円を描いている湾の姿。

 

その入口に浮かんでいる、緑の島。

 

地形が描き出す、構図の面白さ。

 

白と青と緑が調和する、色彩の美しさ。

 

ラ・コンチャ海岸を、そぞろ散策してみる。

 

知らず知らずに、穏やかで心地良い潮風に、身も心も満たされていることを知る。

 

そこには、うっとりとする寛容の空間があった。

 

アンダルシアや、バレンシアの、まぶしくて、底抜けの解放感。

 

それらとは、明らかに異なる、落ち着きがあって洗練された包容力。

 

この包容力こそが、サンセバスチャンをして、スペイン随一の保養地にしたのだろう。

ビスケー湾は、スペイン独立戦争において、イギリス軍の駐留地にされた。

 

その後のスペインは、長い内乱の時代へと転がり堕ちてゆく。

 

そんな、過去の暗いできごとは、海岸を走るひとしきりの風とともに、跡形もなく、どこかへと、吹き飛ばされているようだった。

 

ところが、独立戦争は、サンセバスチャンに大きな爪痕を残していた。

 

ポルトガル軍の包囲戦と、解放軍の焼き討ちにより、旧市街は壊滅する。

 

ナポレオンの束縛からの独立のため、この町が払った代償は大きかった。

 

現存する街並みは、その後に再建されたものだそう。

 

そして現在。

 

この町は、歴史と文化に彩れた国際都市に発展。

 

とくに、山海の食材を使ったガストロノミーの本場として、知られている。

 

平方メートルあたりの面積で、もっともミシュランレストランが多い都市でもある。

 

スペインに旅立つ前、いくつかのレストランをあたった。

 

半年以上も前じゃないと予約がとれない店もある中、幸運にも、Casa Nicolasa(カサ・ニコラーサ)、を予約することができた。

 

1912年創業。

 

伝統的バスク料理のレストランに行けるのは、本当にラッキーだった。

 

旧市街の、アルダマール通り。

 

石造りの建物の、狭い階段をのぼって、二階へ。


漆喰と、茶色の木のコントラストが、無理なく居心地の良さを演出している。


テーブル数は、10卓程度。


狭くもなく、大き過ぎることもない、適度な広さ。

魚か肉かでさんざん迷った末に、野ウサギのクリームソースをメインに決める。

 

前菜は、おすすめにしたがい、チョリーソ、タラのコロッケ、パテと、バスク牛のミルクで作ったバター。

 

 

このバターは、バスク人の、大の好物とのこと。

 

パンに塗るのではなく、そのままパクリと食べる。

 

乳牛が育った、草原の香りを楽しむうちに、豊潤な脂分が溶け出してくる。

 

チョリーソも、タラも、どこもにも尖ったものはない。

 

ただ、原材料のもっている特性を、あるがままに、膨らませている。

 

これが、バスク料理の特徴であるとすれば、日本料理に通じるものかある、とおもった。

 

パテには、何かのレバーをベースに、レッドペッパーや、その他いろいろが詰められていた。

 

コンソメのゼリーに、地元の野菜と、海藻のサラダ添え。

 

これらも、どうように、奇をてらうことなく、オーソドックスに作りこまれていた。

 

そして、メインにした、野ウサギのクリームソース。

 

見た目よりもサラリとしていて、味同士が衝突することはない。

 

クリームソース自体は濃厚なのだけれど、あくまで脇役であることを忘れていない。

 

野ウサギを食べるのは、初めてだった。

 

軽くローストしたものを、さらにソースで煮ている。

 

ジビエには違いないのだけど、手に負えないほどの野生味は感じられない。

 

ホロホロしていて、また、しっかりもしている。

 

一皿の料理の中に、野山が生み出したエッセンスが引き出されていて、うまく調和しているような一品。

 

リンゴと、トリフに似たキノコも入っていた。

 

野ウサギ狩りのこと、キノコが採れる山里のこと。

 

食材を巡る発見の中に、料理に込められた深みを読み取ってゆく

 

食の聖地、サンセバスチャン。

 

この地で、ほんの一端であったとしても、ガストロノミーを体験できたことは、幸福の極みであった。

 

たっぷりとした、三時間弱の、至福のとき。

  

帰り際、シェフが見送りに出てきてくれた。

 

それも、心に残る、よい思い出になった。

事後談

現在の、Casa Nicolasaは、どうなっているのか知りたくて、ネットで調べてみる。


同名のホテルの広告が続く。


ようやく、サンセバスチャンのレストランガイドを発見。


ところが、Casa Nicolasaの紹介の欄には、”Closed”の文字が。

 

どういうことなのだろう。

 

「Adios Casa Nicolasa」という記事を見つける。

 

それによれば、Casa Nicolasaは、残念ながら2010年10月18日に、閉鎖されたことが記されている。

 

シェフのホセ・フアン・カスティージョ(Joaw Juan Castillo)も、同時に引退したとあった。

 

1986年に、創設者一族からこのレストランを引き継ぎ、彼は25年に亘りこの店を守りつづけていた。

 

店のあった場所は、既に一般の住宅に改修されてしまったという。

 

あのとき、あの場所で、彼の料理に出会えたのは、返すがえすも、ラッキーなことだった。

 

長い間、お疲れ様でした。