"Danza Fanciulla Gentile"(踊れ、優しい娘よ)


素人テナーが選ぶ、イタリア歌曲集ベスト10。 

 

今回は、7位にランクインした、Danza, fanciulla gentile(踊れ、優しい娘よ)。

 

作者は、フランチェスコ・ドゥランテ(Francesco Durante)。


バロック後期に活躍した、シチリア生まれの音楽家。

 

この曲の何が良いかといって、激しく上下するアップテンポの旋律に、知らず知らず、身も心も飲み込まれそうになる。

 

前奏からスゴイ。

 

ダダダダダッダッダッダ~ン♪

 

これは、本当にバロック時代の音楽なのだろうか、と思ってしまう。

 

どちらかと言えば、静かで内向的な曲想の多いイタリア古典歌曲において、群を抜いて圧倒的な存在だ。

 

この曲のことも、また、他のほとんどのイタリア古典歌曲と同様に、レッスンまで全く知らなった。 

 

そして、はじめての時から好きでたまらなくなった。

 

素直に、声にして歌うのが楽しかった。

このトップ10に上げた曲の共通点だけど、

歌唱のレベルに関係なく、歌い手をその気にさせてくれる、

そんな魔力みたいなものを備えている。
 
それではと、いつものように、この歌の成り立ちを探ってみることに。

すると、その背景には、どうやら作者ドゥランテの職業上の秘密が絡んでいるらしいことがわかる。

作者のドゥランテは、作家としての活動もさることながら、

音楽教師としての実績が、高く評価されている。

日本では、元禄文化が花開いて、赤穂浪士が討ち入りをしたころ。


1684年、シチリア王国に生まれ、1755年にナポリて没している。


幼いときにナポリに移り、イエスキリスト貧民音楽学校に入学した。

 

この学校は、後にナポリ音楽院として統合され、ドニゼッティやトスティ等を輩出している。

 

その後、彼は、アレッサンドロ・スカラッティ等に師事。

 

この、アレッサンドロ・スカラッティは、生涯に59もの正統派オペラ(オペラ・セリア)を作曲したイタリアンバロック中期の巨匠。

 

なにしろ、この当時のナポリは、パリ、ロンドンに次ぐ、ヨーロッパ第三位の大都市。

 

それ以上に、「世界の音楽の首都」とも評されるほど、音楽が盛んな土地柄だった。

 

18世紀当初には、特にオペラが隆盛して、劇場が相次いで建設されていた。

 

音楽事情に疎い、普通の日本人の感覚からすると、「なんでナポリ?」、と思う。


だけど、スペイン継承戦争のゴタゴタを経て、ハプスブルクの支配に代わった以降も、


ナポリは、音楽院が輩出する多才な若者たちの活躍により、世界の音楽の中心地として発展していた。

 

ドゥランテは、スカラッティが立ちあげた、〈ナポリ楽派〉を受け継いで活躍するのだけど、


作品はもっぱらミサやレクイエムなどの宗教曲が中心だった。

 

では、歌曲、Danza, fanciulla gentileは、どのような経緯で誕生したのだろうか。

 

この歌は、オペラアリアではなく、作詞者不明のアリエッタとある。

 

アリエッタの定義は、規模の小さなアリア(=独唱曲)。

 

ということで、この説明をそのまま解釈すると、「詠み人知らず小曲」 となる。

 

訳詞の、字面からの印象になるけど、気の利いた比喩や表現の深みを、あまり感じない。

 

オペラアリアのように、〈避けられない宿命〉のような壮大なテーマというよりは、


似たようなものが他にもありそうな、庶民的な感じ。

      

Danza fanciulla gentile,
al mio cantare.
Gira,vola,leggera,sottire,
vola al suono dell’onde del mare
senti il vavo rumore
dell’aura scherzoza.
che con languido suon parla al core
e che invitaba a danzar senzapoza.

 

踊れ、優しい娘よ、
私の歌に合わせて。
回れ、飛べ、軽やかに、しなやかに、
飛べ、海の波の音にあわせて。
悩ましい響きで心に語りかけ
休むことのない踊りに誘う戯れ心のそよ風の
美しい音を聞け。

残念なことに、オペラの場合と異なり、この歌の出自については、あまり多くの情報を得ることができなかった。

 

そんな中、南アフリカのピアニスト、アルバート・コンブリンク氏(Albert Combrink)が面白いブログを書いているのを発見する。

 

曰く、もともとこの曲は、ドゥランテが学生用に作った教材のようなもので、


歌詞がついていなかったと考えられるのだそうだ。

 

それが、現在のような歌詞つきで世の中に知られるようになったのは、


19世紀に発行された〈Aria Antiche〉という歌集において。

 

その中には、ドゥランテ作とされるものが2曲納められているのだけれど、


どちらもドゥランテ自身が編纂した作品集には入っていない。

 

これらのことから、もとは本人が作品とは思っていない、たとえば学生用の練習曲のような存在であり、


それらに、19世紀の歌集作成時に、編集者により歌詞がつけられたのではないか。

 

速度や強弱表記についても、バロックのころにはないものが使われているので、


メロディー以外は、19世紀の人が、100年前の音楽を想像して作ったものと考えられている。

 

と、いうことで、仮にこの説明が正しいとすれば、コンコーネのどれかに歌詞をつけて歌っているようなものかなぁ。

 

歌詞が、ありきたりな印象であることも、


曲想が、どこかバロック離れしていると感じたのも、


恐らく19世紀にリメイクされたときのアレンジの結果なのだろう。

 

だからといって、この曲の価値を貶めることにはならないと思う。

 

原曲の素晴らしさを後世の人々が引き出し、歌い繋いできた賜物なのだから。

 

歌い手にとって、歌心をそそられるような上行下音階だったり、心地よいリズムの伴奏だったりするのは、


原作者とリメイク者の双方が存在したからだし、どちらか一方が欠けても達成できなかった結果なのだと思う。

 

バロックのころにはピアノが存在しなかったことも、忘れてはならない。

ドゥランテ先生の授業では、どんな楽器でどうように伴奏されていたのだろうか。

コンブリンク氏は、チェンバロとともにスピネットという、小型の鍵盤楽器が使われたのではないかと想像している。

このスピネットだけど、外見は今のキーボードにそっくり。

ただ、電気で音を増幅できないので、いたって静かな音色らしい。

その当時のナポリ音楽院は、特にカストラート教育の本拠地だったらしいから、

澄んだ男声の高音と、弱音の鍵盤楽器による演奏だったのかなぁ。

そうすると、世俗的でアップテンポな歌い方より、スローテンポで宗教曲のような作り方をしていたのではないか、などと想像してみる。

では、現在の演奏はどうなのか。

 

女声・男声を含めて、多くがあるのだけど、ピアノ伴奏で、畳み込む様な感じのものが多い。

 

こういうのが、現在のこの曲に定着した、演奏のイメージなのだろう。

 

ピアノ版の中では、やはり、パバロッティの演奏が好きだ。

 

レガートとマルカートの歌い分けといい、後半のドラマチックな盛り上げ方といい、『さすが』の一言。

 

オーケストラ版としては、カレーラスやホロストフスキーの演奏がある。

 

うち、ホロストフスキーのほうは、〈Aria Antiche〉全曲をカバーしていているアルバムからのもの。


チェンバロと他の楽器とのアンサンブルに、ホロストフスキーの控え目な歌い方が、バロックらしさを彷彿させている。

 

また、ドゥランテの作として、〈Aria Antiche〉に編入されている、もう一曲のほう。


"Virgin Tutto amor" (愛に満ちた処女よ)。

 

こちらについては、カウンターテナーのクリステアーン・フーゲの演奏が美しい。

 

前述のコンブリンク氏によれば、カストラートの演奏に近いものを感じるのだそうだ。

 

パイプオルガンの調べに乗って、透明な歌声が天空に響いているようだ。

 

ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派と進むにつれて、キリスト教の束縛から、音楽は解放されてゆく。

 

より自由に、より奔放に。

 

"Danza, fanciulla gentile”の存在が、見事にその過程を示していると思う。

 

ほんの小さな歌曲ではあるけれど、バロックと、その後の音楽との融合を示しつつ、


300年後の現在まで、歌い手の心をつかんで離さない。

 

そこには、作者ドゥランテが、伝統を受け継ぎ、真剣に曲想を探求して、


教育を通じて後世に伝えようとした、


音楽への強い思いがあったからなのだろう。