"Le Violette"(菫)


このイタリア歌曲ベスト10も、なんとか第8位に漂着。

 

今回は、イタリアバロックの巨匠、スカルラッティ作曲の、Le Violette(菫)。

 

イタリア歌曲集(1)にある、彼の作品は全部で8曲。

 

1.Sento nel core(私は心に感じる)

2.Gia il sole dal Gange(陽はすでにガンジス川から)

3.O cessate di piagarmi(私を傷つけるのをやめるか)

4.Se Florindo e fedele(フリンドが誠実なら)

5.Son tutta duolo(私は悩みに満ちて)

6.Se tu della mia morte(あなたが私の死の栄光を)

7.Le violette(菫)

8.Chi vuole innamorarsi(恋をしたいひとさは)

 

この中から、何を選ぶか、かなり迷った。

 

最終的に、フロリンドとガンジスと菫の三択に。 

 

さらに、この中から〈菫〉を選んだ理由は、

 

モチーフにしているものが、ほかのものよりも身近だし、自分の経験からでも表現できそうな気がするから。

 

なぜか、この軽快で愛らしいメロディは、人類の歴史の中に、必然的に存在しているもののようにも、おもえてしまう。


この世に、もともと備わっていたものを、スカルラッティが音符にしただけのような・・・。

 

みずみずしさの中に、凛と、冷たい空気に包まれた、ほのかなスミレの香りが漂ってくる、そんな早春のシーンが浮かんでくる。

 

淡い恋のときめきを思い出して、「あ、あ、青春」、これがこの曲に対するイメージ。


 

ところが、この曲を歌いこなすのは、相当の歌唱力がいる。

 

細かに上下する音符。


突出する高音。


早口の歌詞。


氾濫する「エ」母音の処置など、など。

 

ブレスがブツブツになって、


フレーズをまとめられなくなって、

 

レッスンでも、なかなか合格がもらえずに、苦労した。

 

いまでも、ときどき、最初の方を歌い返してみては、上達度のバロメーターにしたりしている。

アレッサンドロ・スカルラッティは、「踊れ、やさしい娘よ」の作者、フランチェスコ・ドゥランテの師匠であり、ナポリ楽派を立ち上げたひと。

 

1660年に生まれ、1725年に没しているから、日本では近松門左衛門や新井白石が活躍していたころ。

 

生地がシチリア王国なのは、弟子のドゥランテと同じ。

 

ローマで宗教音楽を学んだあと、スウェーデン王妃に請われて、宮廷楽団長に就任。

 

その後、オペラ歌手である姉に説得されて、ナポリに戻る。

 

その後、スペイン継承戦争のゴタゴタが起こって、ヨーロッパ各地を転々とし、再びナポリに戻り帰る。

 

生涯で作曲したオペラは59曲、シンフォニーは12曲、オラトリオは500曲。

 

残念なことに、これだけの膨大な作品群の中で、現在でも演奏されているものは、ごく一握りに過ぎないのだそう。

それでは、この彼の膨大な作品群において、Le Violetteは、どのような位置付けにあるのだろう。

 

以下は、Wikipediaにある、菫についての記述。

 

「オペラピーロとデメトーリオにある、マーリオのためのアリア、作詞は、A・モッレッリ。」

 

以上、これだけで、おしまい。

 

さらに、オペラ「ピーロとデメトーリオ」についての記載を見ると、

 

「菫で有名なピロとデメトリオがある。」

 

以上、おしまい。 

 

これじゃ、何も分からないのに等しいため、All Musicというサイトを眺めてみることに。


すると、概ね以下の内容であることを知る。

 

ピッロとデメトーリオは、3幕もののオペラ。

 

初演は、1694年1月に、ナポリのテアトロ・サン・バルトロメオ。


その後、ナポリ以外でも上演された。

 

これは、大ヒットした作品だったことを意味しているのだそう。

 

当時のオペラは、一カ所で数回やるだけだったので、他の都市でも演じられるのは、極めて稀なことだったそう。

 

ローマ、ミラノ、フィレンツェ、ブランズヴィック、ロンドンで上演された記録があるから、よほどスゴイことだったのだろう。

 

ストーリーは、男女の間で錯綜する、恋の物語。

 

姉妹と、兄弟が登場して、それぞれがカップルになったり、離れたり。


 

〈主な登場人物〉

 

◇ピッロ:エピロスの王

 

◇デメトーリオ:マケドニアの王

      

◇マリオ:警備隊長アルバンテの息子で牧童

 

◇クリミーナ:トラキア王リュシマコスの娘でピッロの妻。

 

◇ディダミーア:ピッロの妹でマリオの恋人。


なんで、警備隊長の息子が牧童をやっているのか、また王様の妹と恋愛関係にあるのか、仔細は不明であるのだけど、

 

Le Violetteは、牧童のマリオが、ピッロたち貴族の前で、


高貴な貴婦人たちの美しさを、〈菫〉に例えて歌うものなのだそう。

     

この歌われ方は、勝手に抱いていたイメージからすると、かなり意外な感じがした。

 

若い女性の、主役ソプラノが、芽生え始めた恋心のトキメキを歌うものだと、思いこんでいたのだから。

 

それが、脇役のテナーが歌うものだったとは・・・。

 

Rugiadose,odorose
violette graziose,
voi vi state vergognose,
mezzo ascose―fra le foglie
e sgridate le mie voglie
che son tropp'ambiziose!

 

露に濡れて香る 雅な菫たち
お前達は恥らいながら
半ば葉陰に隠れ
あまりにも野心的な 私の欲求をとがめている

 

しかし、改めて、よくよくこの歌詞を眺めてみると、確かに男の立場から女性を歌っていることが分かる。


はじらう女性の、初々しいさとなまめかしさ。


それを、スミレの佇まいに重ねて、比喩している。


やられてみれば、ナルホドネとおもえてくる。

 

それでは、実際の演奏はどうか。

 

ソプラノのものが多い中、Pvarottiを始めとする、素晴らしいテナーの演奏がある。

 

その中でも、特に、往年の名テナーAlfrdo Krausのものが好きだ。

 

自分があれほど苦労した音階を、きれいな高音の響きの中で、いとも簡単に歌ってしまっている。

 

当時は、カストラートの全盛期であり、それに近いカウンターテナーの演奏を探してみる。

 

録音が悪いのが残念なのだけど、ウクライナ出身のOleg Ryabetsの演奏に惹かれた。

 

なんだか、とっても生生しい艶っぽさがあって、テナーやソプラノにはない独特の感性をくすぐってくる。

一方、従来からのイメージに近い、清楚な女性の歌声としては、ソプラノMaria Bayoの演奏が美しい。

 

チェンバロの伴奏も、バロック的な雰囲気を良く醸し出している。

 

本格的なバロック音楽の再現としては、同じくソプラノの波多野睦美さんの演奏がある。

 

オーケストラの楽器編成も当時のものにしたがい、発声もバロック風といわれる歌い方に変えているという。

 

日ごろ聞きなれている、パリゾッティ版との聞き比べをしてみると面白い。

 

ここで、ふと、「レコードなどの文明の利器がない時代、歌曲はどうやって歌い継がれてきたのだろうか」、と考える。

 

おそらく、楽譜だって、そんなに広く流通していた訳ではないだろう。

 

人々は、耳に残り、共感を得たものを口ずさんだ。

 

その口ずさんだ歌が別の人の共感を生んだ。

 

それがやがて、パリゾッティのような人物により、歌集として編纂され、


さらに広く、多くの人々に知られるようになった。

 

大方のところ、そんな具合だったのでは。

 

パリゾッティのイタリア古典歌曲集は、19世の音楽的趣向により書き換えられているので、本物の古典音楽ではない、との意見を目にすることがある。

 

数々の研究成果もあり、それは事実として、正しいのだ、とおもう。

 

だけど、だからといって、そこに編纂された歌たちの価値を、おとしめることにもならない、ともおもう。


音楽そのものに、万人の心を揺さぶる訴求力がなければ、その曲は、時代の流れの中で淘汰されてしまい、後の時代の脚色の対象になることはできない。

 

古典的であろうと、なかろうと、ひとびとは、自分が共感できる歌をうたい繋いでゆく。

 

その思いは、時空を超えても、変わることはない。

 

膨大なスカラッティの作品の中から、この曲が選ばれ、愛され続けてきたのも、

 

今も昔も変わらない、万人の心をうきうきさせる、早春のトキメキを見事に捉えた音楽だったからに他ならない。