"Nel cor piu non mi sento" (もはや私の心には感じない)


今回のテーマ曲は、ジョヴァンニ・パイジエッロの作品、Nel cor piu non mi sento(もはや私の心には感じない)

 

イタリア歌曲の中でも、特に良く知られているもののひとつ。

 

かくいう自分も、カロミオベンとともに、高校の授業で習ったから、人生で、最初に出会ったイタリア古典歌曲だった。

 

教師が弾く、ピアノの音を聞いたとき、それまで慣れ親しんだ音楽とは異なる、一段上のものに触れたような印象をもったのを覚えている。

 

それから数十年後、声楽のレッスンで出会うことに。

 

曲頭から、一筆書きのように、淀みなく流れ出す、軽快でお洒落なメロディ。

 

イントロを含めて、わずか30小節の小曲であるが故に、少しの無駄や隙間も存在しない。

 

成熟品の、風格を供えている。

 

まるで、小物アンティーク芸術のよう。

           

それも、そのはず。

 

この曲の美しさは、数多くの同業者たちが認めているのだから。

 

まず、良く知られているように、ベートーヴェンが、この旋律を主題にして、ピアノのための変奏曲を書いている「パイジエッロ水車小屋の6つの変奏曲」。

 

その他としても、少なくとも以下の作品があることを知る。

 

◇テオバルト・ベーム(19世紀のドイツで活躍した、作曲家でもあり発明家)による、フルートのための作品「うつろな心による変奏曲」。

 

◇二コル・パガニーニ(イタリアの天才バイオリニストであり作曲家)による、バイオリンのための無伴奏独奏曲「パイジエッロのアリアNel cor piuによる変奏曲」。

 

◇フリードリッヒ・ジルヒャー(ローレライの作曲者)による、フルートとピアノのための変奏曲「うつろな心による変奏」。

 

その他、Wikipediaの説明によれば、ヨハン・ネポムク・フンメル、 ジョヴァンニ・ボッテジーニ、ヤン・クシュチテル・ヴァニュハルなどによる、変奏曲があると紹介されている。

 

Nel cor piu non mi sentoは、これら後輩たちの才能にも彩られ、不滅の名曲となって、現在に伝えられている。  


 

作者、ジョバンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello)は、1740年、イタリアのターラント出身。

 

ほぼ、モーツアルトと同時代を生きた人。

 

ターラントというのは、地理的には、イタリア半島が描く長靴のカガトの内側のあたり、

 

古代ギリシアの植民地を起源とする、古い町だそう。

           

そのターラントに、ひとりの歌の上手な少年がいた。


彼は、その美声がゆえに、ナポリの音楽学校に通うことになる。


音楽学校では、Danza, fanciulla gentile(踊れ、優しい娘よ)の作者である、フランチェスコ・ドゥランテに師事した。

 

そのドゥランテは、Viorete(菫)の作者である、アレッサンドロ・スカルティの弟子。

 

したがい、スカラッティ→ ドゥランテ→ パイジエッロとつながるナポリ楽派の正統の中で、この名曲が揺籃されていたことが分かる。

 

ナポリを卒業したあとの彼は、オペラ・ブッファの作家として名声を轟かせる。

 

1776年には、ロシアの女帝、エカテリーナ2世からの招聘を受け、宮廷楽団長としてサントペテルブルグに赴くことに。

 

エカリテリーナ2世といえば、ロシア帝国の最盛期を築いた女傑。


もとはプロイセン貴族の娘として生まれながら、皇帝にまで成り上がったひと。

 

14歳のとき、皇太子妃の候補となり、その後にロシアに渡って正式に結婚。

 

1761年、側近貴族とともにクーデターを図り、夫(ピヨートル3世)を廃位に追い込む。

 

即位の経緯が経緯だったため、内政は乱れ、外交でも、オスマントルコなどとの領土紛争が絶えなかった。

 

パイジエッロが赴任したころのロシアは、こうした内憂外患がひと段落して、エカテリーナが進めていた〈啓蒙政策〉が軌道に乗り出した時期だったのだろう。

 

彼は、サントぺテルスブルグに8年滞在し、旺盛な創作活動を展開。

 

そして、この地において、生涯の傑作とされる、オペラ「セビリアの理髪師」を完成させる。

 

「え、ちょっと、待ってください。」


「セビリアの理髪師の作者はロッシーニでしょう?」

 

こう思うのが、普通の反応。 

 

ところが、「セビリアの理髪師」という題名のオペラを最初に作ったのは、パイジエッロの方で、ロッシーニは、ちゃっかり、後年に、それを拝借したのだそう。

 

ロッシーニの作品が出るまで、パイジエッロの「セビリアの理髪師」は、世紀の名作と、もてはやされていたらしいから、彼は、さぞ墓場の陰で嘆いていることだろう。

 

この話だけを取り上げると、パイジエッロは、運に恵まれない、可哀想な部類の音楽家に思えてしまう。

 

ところが、実際の彼の生涯は、そんな悲運の連続ではなかった。

 

いや、むしろ、きらびやかなビロードの絨毯の上を闊歩した、稀有な音楽家のひとりだった。

 

ロシアの後は、ウィーンに移り、ローマ皇帝ヨゼフ2世に仕え、

 

1784年にナポリに戻り、フォークでパスタを食べることを普及させた、国王フェルディナンド4世の楽長に就任。

 

その後、ヨーロッパ各地で吹き荒れた、フランス革命の嵐にも飲み込まれることもなかった。

 

それどころか、運良く体制側について、皇帝ナポレオン・ボナパルトの私設楽団の指揮者に就任。

 

他者が羨むほどに、かの絶対君主から溺愛されていたという。

 

まさに、音楽家として、栄華を究めるに至る。

 

では、このNel cor piu non mi sentoは、そんな彼の華麗な音楽家人生の、どの時期に作られたのだろうか。

 

この曲は、一般的には、オペラ、La Molinara(美しい水車小屋の娘)の中にあるアリアとされている。

           

そもそもは、1788年、ナポリにおいて、L’amor contrastato(身分違いの恋)として上演され、

 

それが、大成功を収めたために、翌1789年に、題名をLa Molinaraに変えて、ナポリ以外の各地において上演されたという。


中身は同じでも、題名が違うたため、La Molinaraとしては、1789年、ウィーンで初上演となるらしい。

 

彼が48歳のとき、つまり、ナポリのフェルナンド4世に仕えていた、まさに音楽家としての円熟期を迎えたころの作品ということ

 

ベートーヴェンも、ウィーンにおいて、この舞台を観劇していたのではないか、と考えてられているのだそう。

 

それが故に、ピアノ変奏曲へのヒントを得たのではないかと。

 

ところが、ヨーロッパ各地において大ヒットを飛ばし、また多くの音楽家に電撃を走らせた作品であったのにもかかわらず、

 

現在では、このオペラについての情報は、想定していた以上に乏しい。

 

例えば、Wkipediaで、「美しい水車小屋の娘」を使って検索した場合、ほとんどが後作であるシューベルトの歌曲集のものになる。

 

Nel cor piu non mi sentoでは、圧倒的多数でベートーヴェンの変奏曲に関するもの、といった状態。

 

そんな中、2005年2月に神奈川県立音楽堂において、故若杉弘さんの指揮により演奏された、オペラ「水車小屋の娘」に関する情報があるのを発見。

 

なんと日本語で、オペラストリーの抄訳があるではないか(ブラボー)!

 

以下に、それを引用してみることに。

 

〈18世紀ヨーロッパを抱腹絶倒させたナポリの恋のから騒ぎ〉

      

ナポリの街はずれににある男爵の館。

 

公証人であるピストーフォロが、令嬢エウジェーニアと、その従兄弟のカ ッロアンドロの結婚証明書を読み上げている。

 

しかし、カ ッロアンドロは、「土地付きの娘でも不美人の婚約者な んて」、とうそぶく。

 

一方、財産目当てで、エウジェーニアに言い寄る騎士が出てきて、結婚は最初から波乱の様相。 

 

そこへ、美しい水車小屋の娘、ラケリーナが登場したから大変。

 

ピストーフォロも、カッロアンドロも、彼女に一目惚れしてしまう。

 

カッロアンドロはさっそく彼女に言い寄り、ピストーフォロは求婚するが、 二人とも上手く逃げられてしまう。

 

一方、ピストーフォロのところに、年老いた行政官ロスポローネがやってくる。

 

なんと、彼のその内密の頼みとは、ラケリーナへの愛の橋渡し。

 

ほどなく、カッロアンドロも、 同じことを頼みにくる。

 

ピストーフォロは、二人の仲介役を買って出ておきながら、嘘をでっちあげたので、事態は大混乱。

 

かたや、エウジェーニアは、婚約者が水車小屋の娘に夢中だ とおかんむり。

 

大混乱の中、さてさていったい結末は・・・?

 

 

 

なるほど。

 

要するに、ラケリーナ(水車小屋の娘)と、彼女を取り巻く男たちの〈ラブコメディ〉、ということがわかる。

 

次に、このオペラのリブレットに書かれた配役を参考にしてみる。

 

◇ラケリーナ(ソプラノ)~恋多き金持ちの水車小屋の娘~

◇エウジェーニア(ソプラノ)~カッロアンドロの婚約者~

◇カッロアンドロ(テノール)~エウジェーニアの婚約者でラケリーナに恋心をいだく~

◇ピストーフォロ(バリトン)~カッロアンドロとエウジェーニアの結婚式の公証人~

◇ロスポローネ(バス)~年老いた行政官ながらラケリーナに思いを寄せる~

 

ふむふむ。

 

これで、ひとりひとりの人物像が、よりハッキリした気がする。

 

だけど、残念ながら、これらの情報だけでは、この物語の結末や、肝心のNel cor piu non mi sentoが、誰によって、どのような場面で歌われたのかは、不明のまま。

 

そこで、そのままリブレットに目を移して、しばらく文字を追ってゆくと、

 

すると、発見、発見、ありました。

 

第三幕の第一場。

 

場面は、彼女の水車小屋。


ラケリーナとカロッアンドロが、会話を交わしている。

 

そのあとに、Nel cor piu non mi sentoの歌詞が!

 

この記述から、このアリアは、ラケリーナが歌うものだと想定がついたのだけど、それ以上は良く分からなかった。

 

そこで、実際の演奏を聞いてみことに。

 

Youtubeを検索すると、「さすが!」です。

 

1996年、アイヴァ―・ボルトン指揮による、演奏がありました(於ボローニャ市立劇場)。

 

正味二時間の演奏の、ちょうど半ば過ぎに、聞き覚えのある前奏に続いて、ソプラノの歌が。

 

ところが、歌詞はNel cor piu non mi sentoであるのだけど、知っている旋律とは似て非なるもの。

 

音の動きがフラットで、本来のメロディから、装飾を取り除いたような感じ。

 

ソプラノにつづいて、テナーが別の歌詞でリフレインを歌い、最後はソプラノとテナーの二重唱。

 

「思っていたのと、ちょっと違う。」

 

違和感を抱えたまま、さらに、聞き進んでゆくと、そのような心配は、すっかり無用に。

 

パイジエッロの、この旋律に対する愛着は、さらに、さらに膨らんでゆく。

 

再びソプラノが、Nel cor piu non mi sentoの歌詞を歌い出す。

 

それも、まぎれもなく、現在のイタリア歌曲集に出てくる旋律で。

 

そして、今回はソプラノのあとにバリトンが続いて歌うのだけど、歌詞は先のテナーのものと異なる、また別なものになっている。

 

そして最後は、前回と同様に、ソプラノとバリトンのデュエットで終わる。

 

聞き終わってみれば、ひとつの優れたモチーフに、手を変え品を変えて、味わい尽くすような作り方だったことを理解。

 

言い換えれば、〈鯛づくし〉や〈鱧づくし〉のような手法である。

 

〈Sprano Part〉

Nel cor più non mi sento

brillar la gioventù;

cagion del mio tormento,

amor, sei colpa tu,

Mi pizzichi, mi stuzzichi,

mi pungichi, mi mastichi,

che cosa è qesto ahimè?

pietà, pietà, pietà!

amore è un certo che,

che disperar mi fa!

 

もはや心に感じられない 

あの青春の輝きが 私の苦しみのわけは 

愛よ お前の罪なのだ

私をつねり、突き、 刺し、噛みつく

ああ これは何なのだ? どうか 

どうか 助けてください!

恋とはこれほどまでに 

私を絶望させるものなのか!

 

〈Tennar Part〉

Ti sento, sì ti sentobel fior di gioventù.

Cagion del mio tormentoanima mia sei tu.

Mi stuzzichi, mi mastichi, mi pungichi, mi pizzichi,

che cosa è questa ohimè!

Pietà,pietà, pietà!

Quel viso è un certo che...che delirar mi fa

 

お前のことを感じる そう、私はお前を感じる 

若さ故の美しさ 私の苦しみのわけは 

愛よ お前の罪なのだ

私を苦しめ、噛み、刺し、つねる

ああ、これは何なのだ。

どうか、助けてください

恋とはこれほどまでに 

私を盲目にさせるものなのか!

 

バリトンの歌詞については、リブレットで見つけることができず、不明のまま。

 

ただ、音楽の作りから類推すれば、テナー(カッロアンドロ)との絡みは、あまりにも平坦で、ラケリーナは、彼の思いを拒絶している表現に聞こえる。

 

これに対して、バリトン(ピストーフォロ)との絡みでは、可憐さや瑞々しさに溢れ、高鳴る女心の起伏を、暗に包み込んだような表現に聞こえる。

 

こうなると、どうしても、このさきの展開が知りたくなる。


アメリカのテレビドラマに、ハマったときみたいだ。


そこで、Opera Managerというサイトを参考とすることに。

 

その結果、おおむね以下のような展開だと理解。

 

ラケリーナは、二人の男との危険な恋のゲームを進めるうち、

 

自分と共に、「粉挽きをやってくれるひとと一緒になりたい」、とおもうようになる。

 

いくつかのテストを通して、二人のうちで、より自分にふさわしい相手を見極めようとする。

 

最終的に、彼女は、地味ではあるけど誠実なピストーフォロを選ぶことに。

 

(カッロアンドロの方は、もとに鞘におさまり、男爵家の婿に納まることと理解。)

      

Nel cor piu non mi sentoをとおして、この作品全体を眺めてみると、典型的なオペラ・ブッファであることが分かる。

 

身近なテーマを取り上げ、カストラート無しの歌手構成、バリトンを重視する、など。

 

これは、18世紀、オペラが貴族から庶民のものへと変遷したころ、


その中心地ナポリで活躍した、いかにもパイジエッロらしい作品なのだ

 

それでは、現在においては、どのような歌手たちの演奏があるのだろうか。

 

さすが、イタリア古典歌曲の入門曲とあって、さまざまな演奏。

 

そして、女声の演奏が圧倒的に多い。

 

中でも、オーケストラ版の演奏として、Nina Bols Lundgren(ソプラノ)とハーグ・バロックオーケストラのものがある。

 

すばらしいパフォーマンスなのだけど、オペラアリアの歌い方とは異なり、古典歌曲としての演奏。

 

ピアノ版の演奏としては、Mimi Coertse(ソプラノ)のものが好きだ。

 

こんなに可愛らしい歌声で歌われたら、しかめ面をした頑固オヤジでも、おもわずニッコリしてしまうのに違いない。

 

ピストーフォロのイメージとしては、おなじみDimitri Hvorostovky (バリトン)の演奏がある。

 

ただ、結構なアップテンポのため、〈La Malianare〉が求めている表現とは異なる気がする。

 

テナーのものとしては、これもおなじみLuciano Pavarottiの演奏がある。

 

持ち声が素晴らし過ぎて、これを聞いたら、ラケリーナも、カッロアンドロの方に心変わりしまうのではないだろうか。

 

しかし、この曲は、歌曲として切り出して聞くよりも、「オペラの中のアリアとして聞いた方が、より素晴らしい」、という結論になった。

 

演奏のテンポは思ったより、ゆっくり流れている。

 

それが、なんとも心地よい。

 

しみじみと、心のヒダに染み込んでくるようだ。

 

もとより、ドラマチックな曲想ではない。

 

高音を、スピントする部分もない。

 

圧倒的な〈凄さ〉はないのだけど、その分、素直に感情移入ができる。

 

音楽が表現しているものと、現実の自分との間の距離が、近いからだろう。

 

作者であるパイジエッロは、生涯において80作に及ぶオペラを書いたという。

 

しかし、現在ではそのほとんどが、あまり演奏されることのない、〈お蔵入り〉の作品となってしまっているという。

 

2時間という時間を通して、人の感心を引き付ける作品を生み出すことは、並大抵のことではない。

 

たとえば、ガラのように、聞きどころを切り出して演奏するのも、ひとつのあり方だとおもえる。

 

少なくとも、Nel cor piu non mi sentについては、そのような切り出しによる演奏にも、十分値する音楽であることは言うまでもない。

 

おもうに、彼の作り出した音楽は、常に、ひとつの完成品として存在する必要がなかった、のではないだろうか。

 

むしろ、珠玉のモチーフとして、組み込まれたり、切り出されたりすることに、価値があったのかもしれない。

      

陽の当たる道を歩き続けたパイジエッロは、人生の終末になって、不遇の時代を迎える。

 

ナポリに対する、フランスの支配が終わって、裏切り者の側に回ることになってしまったからだ。

 

失意の中で、〈うつろな心〉を抱えることになった。

 

だけど、3つの帝国の皇帝に仕えた経歴をもつ音楽家は、他にはいない。

 

音楽を職業として身を立てた彼には、それで、十分だったんじゃないか、とおもう。 

 

栄達の絶頂のパリにあったとき、彼は、以下のような質問を受ける。

 

「なぜ、皇帝(ナポレオン)は、これほどまで、君の音楽が好きなのかのか?」

 

これに対して、パイジエッロは、次のように応えたという。

 

「僕の音楽は、皇帝が他のことを考えるのを、妨げないからだ。」

 

この言葉が、真に意味するものは、正確にはわからない。

 

だけど、それが、「聞こうとするときに、心地よく耳に入る音楽」、という意味だとすれば、

 

彼の音楽は、その作風のとおりに響き続けているのではないだろうか。

 

今も、そして、きっと将来も。