Vittoria, mio core(勝利だ、私の心よ)


Star vicino(側にいることは)において、明らかにされた、作者誤認とリメイクの痕跡

 

曲そのものが、19世紀になって作り直されていた。

 

もとは、バロックに活躍したルイージ・マンチャの作品だったのに

 

400年前の歌たちが、オリジナルの姿のままで伝えられる難しさを教えてくれた。

 

それでは、イタリア歌曲集にある、17世紀中半の作品はどういう状況なのだろう?

 

作曲者の生没年を手がかりにして、いくつか候補を探してみる。

 

すると、以下の5曲が該当した。

 

・Virroria, mio core!(勝利だ、私の心よ) ~Gian Giacomo Carissimi~

 

・Tu mancavi a tormentarmi(お前は私を苦しめていなかったのに) ~Marco A Cesti~

 

・Addio, Corindo(さよなら、コリンド) ~Marco A Cesti~

 

・Deh, piu a me non V'ascondete(姿を隠さないでほしい) ~Giovanni Maria Bononcini~

 

・Aria di chiesa(教会のアリア) ~Alessandro Stradella~

 

今回も、中巻寛子さんの「イタリア古典歌曲」研究序論を参考にして、それらの曲目を眺めてみる。

 

すると、あらま!

 

次々に明らかにされる真実。

 

まず、Cestiのものとされていた、〈お前は私を苦しめていなかったのに〉は、作者誤認が明らかになっているそう。

 

本当の作者は、Carlo Caplori(1615~92年)。

 

この人も、同じバロックの人なんだけど、いかんせん、この曲に対する印象が薄くて、何をどう歌ったのやら?

 

もう一方の〈さよなら、コリンド〉に至っては、

 

「初心者には難しすぎるので、中級になったらやりましょうね」、ということになり、歌ってもいない状況。

 

となれば、Cestiの2曲は、見送ることにするしかない。

 

では、Giovanni Maria Bononciniの作品、〈姿を隠さないでほしい〉は?

 

改めて、この曲の楽譜を追ってみる。

 

う~ん、頭の中にメロディが流れてこない。

 

そういえば、レッスンの時にも、「メサイヤみたいなメリスマの連続は、いかにもバロックらしいな」、とおもったものだけど、


「もう一度歌ってみたい」というような、前向きの印象は持たなかった。

 

さらに、中巻さんの解説により、この曲も、作者誤認していたことを知る。

 

Giovanni Maria Bononciniじゃなくて、Giovanni Bononciniだったことが判明したそう。

 

Mariaが入るのがお父さんで、入らないのが息子だそう。

 

後世にイタリア歌曲集を編纂したパリゾッティも、ややこしくて、勘違いしたんじゃないだろうか?

 

ということで、〈Vittoria, mio core〉(勝利だ、私の心よ)か、〈Aria di chiesa〉(教会のアリア)の二択ということに。

 

どっちも好きな曲だし、当初は、「両方書いてもいいかな」、ともおもっていた。

 

すると、またまた真実が判明。

 

教会のアリアについては、その後の研究によって、19世紀につくられた作品というのが、〈大方の見方〉となっているんだって。 

 

ベルギーのフェティスという音楽家が、実際の作者らしい。

 

〈カッチーニのアベ・マリア〉は、ロシア人だったけど、〈教会のアリア〉は、ベルギー人が本当の作者だった。

 

これは、作者誤認にとどまらず、作られた時代が違っているので、対象外とするしかない。

 

かくして、Vittoria, mio coreだけが残る。

 

でも、この曲も本当に大丈夫?

 

作者は、Gian Giacomo Carissimi。

 

日本語では、ジャコモ・カリッシミ(1605~75年)。

 

Wikipediaでは、イタリア盛期バロック音楽の作曲家にして、ローマ楽派に所属、宗教音楽の大家、との紹介。

 

教会の楽長として活動していたので、「作品も厳格に管理されていたんじゃないだろうか」、と勝手に理解することにする。

 

だいたい、ポートレートのご本人が、「そんなズルは許しませんよ」とでも、いってるよう。

 

20歳でアッシンジ礼拝堂の指揮者になり、その後、ローマ聖アポリナリスの学長になる。

 

死ぬまでその地位にとどまったというから、コチコチのキリスト教徒の香りが・・・。

 

やっぱり、1637年には司祭に叙任されたそう。

 

モンテヴェルディの後任者として、ヴェネツィアのサン・マルコに招聘されたこともあるらしいけど、

 

生涯イタリアから外に出たことがないそうだから、心底、身も心も、教会の活動に捧げていたのだろう。

 

同世代のルイージ・マンチャが、ドイツやイギリスの王室に就職活動をくり返していたのとは、大違い。

 

この時代を生き伸びてゆく、もうひとつの類型、すなわち、宗教人音楽家のあり方を、端的に示しているよう。

 

何を隠そう、カリッシミのことは、このブログを書くまでは、ほとんど知らなかった。

 

以下の3つの功績により、彼は大音楽家として評価されているのだそうか。

 

1.レチタティーヴォの発展

2.室内カンタータの発展

3.オラトリオの発展

 

なかでも、オラトリオ黎明期を築いた最重要の作曲家、との評価されているのだとか。

 

知れば知るほど、宗教とは縁が濃かったんだなぁ、との印象を深める。

 

イタリアのバッハみたい。


そうではなくて、生まれたて順番からすれば、バッハがドイツのカリッシミ?

 

生涯に、17のオラトリオ、12のミサに加えて、約200曲のカンタータを作曲したという。

 

カンタータには、宗教的と世俗的とがあって、この、Vittoria, mio coreは、世俗カンタータの代表作

 

彼の作品においては、もっともシンプルで、もっとも良く知られているものだと、評価されているそう。

 

そういえば、イタリア歌曲集においても、カンタータとしては、この曲が一番最初に出てくる。

 

音楽形式における、カンタータの位置づけは、「コンチェルタート様式のマドリガーレを無用にしたもの」、とある。

 

コンチェルタート様式とは、〈ルネッサンス後期のマドリガーレ〉の次に出現したもの。

 

したがって、カッチーニのアマリッリと、この曲の間には、音楽形式において、 

 

マドリガーレ→コンチェルタート→カンタータと、すでに2世代の開きがあることになる。

 

専門的なことは、良く分からないのだけど、この時代は、新しい音楽のスタイルが、盛んに創作された時代。


したがい、半世紀の間でも、種別範疇がコロコロ変わってしまうのだろう。  

  

自分で書き続けていたくせに、こんなことを言うのはなんですか、


形式がどうこう言うことは、音楽を楽しむことの本質には、あまり関係がない気もするので、話しを前に進めることに。

     

この曲が作られたのは、江戸幕府が創設されたころ。


その割には、古臭さをあまり感じさせないのは、カリッシミの音楽の、完成度の高さなのためなのだろう。

 

バロックらしく、随所にメリスマ音階が散りばめられているけど、現代に作ったとしても、同様のメロディもありかな、とおもえたりもする。

 

歌っている最中に、アマリッリのときのように、感情移入の難しさを感じることがない。

 

おぉ、なるほど、これが、カンタータ!

 

今の発声のままでも、気持ちよく歌うことができる。。。

 

何より、「いいな」、とおもうのは、歌っているうちに、どこからか〈生きる力〉が湧いてくる気がすること。

 

この歌詞がいっている〈勝利〉とは、失恋の苦しみからの解放。

 

お前にフラれたけど、オイラは、ひと回り逞しくなったぜ、と言っている。


再出発を決意する、すがすがしさ、力強さ、明るさには、手放しで共感できる。

 

To lo saiもそうだったけど、こういう逆説的な歌詞には、いいメロディがつくことが多いのかも知れない。

 

言葉の表現が多彩になるから、作曲の構想も、奔放に広がってゆくのだろう。

 

〈イタリア語原詩〉

Vittoria, mio core non lagrimar piú,
é sciolta d’Amore la vil servitú.

Gia l’empia a’tuoi danni  fra storo di sguardi
con vezzi bugiardi

dispose gl’inganni; ie frodi,gli affanni
non hanno più loco,  del crudo suo foco
è spento l’ardore! Da luci ridenti  non esce piú strale


che piaga mortale  nel petto m’avventi:  nel duol, ne’tormenti  io piú non mi sfaccio  è rotto ogni laccio, spario il timore!

 

〈日本語約訳〉

勝利だ、私の心よ、もはや涙を流すな、 「愛」へのへりくだった奉仕は 終わったのだ。

かつてはあの残酷な女が、偽りの愛嬌を持って 数多の眼差しで、お前をたぶらかし傷つけたが、 

 

欺瞞も苦悩も、もはや無く、 彼女の惨い火の熱も、消えてしまった。

私の胸の中に、致命的な傷を与える矢は、 ほほえむ光りのような瞳から、もはや飛び出して来ない。


私はもはや、悩みにも苦しみにも、身を滅ぼすことは無い。


すべての絆は解け、恐れは消えてしまった。

 

実際の演奏を聞いてみる。

 

またしても、Ceciliaの演奏に聞きほれてしまった。

 

アマリッリのときに、マドリガーレ唱法で魅了してくれたけど、バロックでも圧倒的な歌唱。

 

やっぱり、〈メリスマこぶし〉の回し方が、全然違う。

 

この心地良さは、なんなのだろう。

 

録音が途中で切れていて残念なのは、フランス人のコントラアルトNathalie Stutzmannの演奏。

 

前奏が鳴り始めたとたん、これからどんな音楽が始まるのだろうと、ワクワクしてくる。

 

彼女が、メリスマをどう歌っているのか、ぜひぜひ聞いてみたい。

 

この曲の最大の特徴は、〈タッタッタン・タッタッタン〉というリズムに乗って繰り返される、Vittoria(勝利)という言葉。

 

合計で、14回も繰り返している。

 

冒頭から軽快に流れてゆくメロディは、中間部になると一転して、澱みの中に停滞する。

 

しかし、それは、強い決意を表わすため。

 

力をため込み、さらなる強い流れを作り出すための準備。

 

再び繰り返されるVittoriaの連打から、コーダまで一気に流れ込んで、最終部を最高潮に盛り上げている。

 

なんとも、心憎い演出。

 

カリッシミは、音楽家として駆け出しのころは、教会専属の歌手だったそうだから、歌い手の気持ちを、良く心得ていたのだろう。

 

作者誤認や書き換えに見舞われてきた、この時代の作品たち。

 

だけど、声に出したり、耳で聞いてみたりすると、何となくではあるけど、この時代に作られたものかどうかが、分かる気もする。

 

優れた作者たちは、作品に時代時代の空気を内包させている。

 

いつの世であっても、その音楽を音にしたとき、曲中に閉じ込められた空気は時空を超えて蘇ってくる。

 

時は17世紀、絶対君主の全盛期。

 

そこには、通奏低音の心地よさに乗って繰り出されてくる、絢爛豪華でダイナミックな音楽が鳴り響いていた

 

このVittoria, mio coreは、そうした時代が醸し出す独特の香りを発散させることによって、


ひとびとの感性に、〈生きる力〉という共感を呼び起こしてきた。

 

何より、改ざんや書き換えの隙間を与えず、オリジナルの姿のままで400年を生き残ってきたという、その事実こそが、


この曲がもつ、時間を超えた普遍性への証左なのだとおもう。